「金出せ早ぐ」−小林・元死刑囚の刑執行 武富士弘前店放火殺人事件の経過を振り返る

「金出せ、出さねば火を付けるぞ」−。2001年5月8日、白昼の弘前市で、県内で過去に類を見ない凶悪事件は起きた。燃え上がるビル、立ち上るどす黒い煙、とどろく悲鳴。29日に死刑が執行された小林光弘・元死刑囚(56)の一審青森地裁判決などを基に、5人が死亡、4人が重軽傷を負った「武富士事件」を振り返った。
 中学卒業後、千葉県内の運輸会社に就職。1987年に帰郷し、タクシー運転手として働きだしたが、競輪にのめり込み、消費者金融から多額の借金を重ねていった。
 「強盗でもするしか方法はない」−。以前、青森地裁弘前支部で行われた自己破産申し立て手続きに関する説明会に出掛けた際、偶然見かけた武富士弘前支店を思い出し、狙いを付けた。事件前日の5月7日、現場を下見し、黒石市内のガソリンスタンドで混合油4.2リットルを購入した。
 そして8日。妻と娘が出掛けた後、青森市浪岡(当時・浪岡町)の自宅から弘前市内の3階建てビルに向かった。午前10時49分、2階踊り場に新聞紙の束を置き、3階の武富士支店内に押し入った。
 「おめだぢ早ぐ」「おめえら早ぐ」。カウンター越しに混合油をまき、ねじり紙に点火するようなしぐさを見せ、店内にいた従業員に現金を要求した。しかし、従業員たちは警察に通報するなど応じない。怒った小林元死刑囚は、店舗への放火を決めた。「もうどうなっても構わない」。火を付けた紙を投げ入れて逃走。階段踊り場の新聞紙にも放火した。
 その後、小林元死刑囚は犯行の引き金ともなった競輪を続けながら、不可解な行動に出た。誰かに犯行を打ち明けたいと思い、報道関係者に電話をかけ、自ら犯人と名乗った。さらに事件から1カ月後、捜査をかく乱する目的で「私は40代ではない。服装はつなぎ服ではない。捜査は広域に行うべきだ。私は逃げ回っているのだから」などと手紙を書き、青森市の青森テレビ(ATV)本社に置くまでした。
 実は2001年中、県警は2度、小林元死刑囚に接触していた。だが、捜査線上には浮かんでいなかったという。急展開したのは、明けた02年。現場に残っていた新聞紙の解析を進めたところ、容疑者の居住地が浪岡と判明。さらにATVへの手紙の筆跡鑑定で、小林元死刑囚の犯行の疑いが一層強まった。ガソリンのような液体をまく模倣事件が全国で相次ぎ、警察庁から「弘前は絶対検挙せよ」との号令が掛かる中、県警は慎重に裏付けを進め、逮捕に至った。
 逮捕・起訴後の公判で、小林元死刑囚は殺意を否認。取り乱すことなく冷静な受け答えに終始した。青森地裁は5人の焼死者と4人の負傷者を生じさせた責任の重大さを指摘し、「被告人の生命をもって償わせるのが相当」と、死刑を言い渡した。