吉田の父、突然の訃報 神速タックル、父娘の労作 レスリング

■厳格な指導者 後退許さず

 「口より先に手」という昔かたぎの父親は、厳格な指導者でもあった。吉田栄勝さんが津市の自宅に、20畳足らずの手狭なレスリング道場を構えたのは28年ほど前。当時3歳の長女、沙保里に行った手ほどきは過酷の極みといえた。

 「ここ(道場)で教えたのは基本だけ」

 吉田の生い立ちを聞かれる度に栄勝さんは笑っていたが、3歩下がれば他の道場生に足を踏まれ、5歩下がれば父の竹刀が背中を打った。的をめがけて一直線に飛び込む神速のタックルは、後退を許さない父と教えを守った娘との労作だ。

 専大時代は実力者として名をはせた。1976年モントリオール五輪は国内予選で攻めあぐね敗退。のちに娘を「霊長類最強女子」へと導くタックルの背骨には、「あのとき前に出ていれば」という自身の悔恨がある。

 女子レスリングが五輪種目でなかった時代、1度の遠征で数十万円を持ち出しながらも監督を買って出た硬骨漢。中学生から幼稚園児まで受け入れる自宅の「教室」からは、2010年アジア大会銀メダルの小田裕之ら有為な若手を何人も世に出した。それでいて、道場生からの謝礼は一切受け取らなかったという。

 12年9月に吉田がアレクサンドル・カレリン(ロシア)を超える世界大会13連覇を果たした際、栄勝さんは神妙だった。「カレリンは僕らの時代の偉材。超えたという気分になれない。五輪で4連覇したら(吉田を)すごいと認めてもいい」。ロンドン五輪で3連覇した吉田に肩車され、しきりに照れていた武骨な父親。酒が入ると軽妙洒脱(しゃだつ)にレスリングを語った伯楽。夢は16年リオデジャネイロ五輪、20年東京五輪に続くはずだった。