山本美香さんの死から1年 彼女が残したメッセージ

ジャーナリストの山本美香さんが死亡したというニュースは、熱帯夜で寝苦しい昨年8月21日の明け方、枕元に置いてあった携帯電話の速報で知った。「まさか美香さんが……」という思いと「もしかしたら美香さんかもしれない……」という思いが交錯したあと、頭がフリーズしてしまった。ただ、その日の記憶はいまだに鮮明で、自分が寝返りを打っていた様子まで覚えている。(早大政治経済学術院教授・瀬川至朗)

 内戦が続く中東シリアの北部の町アレッポを取材中の山本美香さんが、政府軍が発砲したとみられる凶弾にたおれて死亡してから1年になる。8月20日が彼女の命日である。

ジャーナリストにとって世界で最も危険な国

美香さんとは5年間のお付合いだった。戦場ジャーナリストと聞いてもピンとこないほど、華奢で笑顔が素敵な方だった。

 彼女はアフガニスタンやイラクなどの紛争地を中心に取材し、映像や文章で伝えるジャーナリストとして知られていた。プロフェッショナルなジャーナリスト教育を目指す早稲田大学大学院ジャーナリズムコース(J-School)の教員をしている私は、美香さんに「ジャーナリズムの使命」という授業の講師をお願いし、快諾してもらった。非常勤講師として、2008年〜2012年までの5年間に年2、3回ずつお越しいただき、「戦争とジャーナリズム」について話をしてもらった。

 亡くなられた後、美香さんが所属する「ジャパンプレス」の事務所にパートナーの佐藤和孝さんを訪ねる機会があった。美香さんの机上は、シリアに旅立ったときのままだった。机上の電話機に貼られたメモ書きに目が留まった。

「外国人ジャーナリストがいることで、最悪の事態を防ぐことができる。抑止力」。シリア取材に対する、彼女の強い気持ちが記されていた。

 そのシリアは最悪の事態を免れているのか。

現実には、アサド政権と反政府軍との泥沼の内戦がつづいている。今月16日の国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)の情報によると、2011年3月の戦闘開始以来、すでに10万人以上が内戦の犠牲になった。国外に脱出した難民は約200万人。16日も5000人以上の難民が国外に脱出するのが目撃された。軍による市民の虐殺や暴行も報告されており、人道的な危機は悪化し、泥沼の状況は改善できていない。

 シリア内戦によるジャーナリストの死者もつづいている。アメリカ・ニューヨークのNPO「ジャーナリスト保護委員会」(CPJ)のまとめによると、2012年には美香さんを含め計30人のジャーナリストがシリアで殺害された(状況がはっきりしているケースのみで、死亡したジャーナリストの人数はこれより多い)。この年、世界で殺害されたジャーナリストは計72人なので4割以上がシリアでの死である。CPJは、シリアはジャーナリストにとって世界で最も危険な国だと指摘した。2013年になっても、17人のジャーナリストがシリアで殺されている。

 美香さんが生きていたら、この現状をどう受け止めるだろうか。悪化する状況に絶望するだろうか。いや、彼女は、現実の深刻さを直視しながらも、決して取材をあきらめることはしないと思う。

山本美香さんが伝えたかったこと

彼女は学生にこんなメッセージを残している。

 「現地の人たちが全力で怒りや悲しみをぶつけてくるのですから、同じ人間として心を大きく揺さぶられます。悔しかったり、悲しかったり、怒りの感情が生まれ、心の中にどんどん積もっていきます。……現場で感じる恐怖心を忘れないようにしたい」(『ザ・ミッション』)

 紛争地には、戦いに翻弄され苦しみながらもたくましく生きる市民が住んでいる。ジャーナリストがいなければ、市民の怒りや悲しみを誰が伝えるのか。自分を含め、一人でも多くのジャーナリストが現地に入り、市民の声を伝えることが平和への道につながるという信念に変わりはないだろう。

 シリアの外に目を向けてみる。世界や日本の状況はどうか。

 2011年の「アラブの春」でムバラク政権が崩壊し、民主化が始まったエジプトでは今年7月、軍のクーデターがあった。8月になってモルシ前大統領の支持派(ムスリム同胞団)と暫定政権の軍・治安部隊が衝突し、現地からの報道によると、これまでに800人を超す死者が出ている。ジャーナリストの死亡も報告されている。日本人にとって、より身近な東アジアでは、日中、日韓の政府関係が悪化し、それが両国民の相互不信を増幅する形になっている。「いずれ戦争が起きるかもしれない」といった不安も市民の間で生れている。
 ここで私はやはり、美香さんの言葉に耳を傾けたい。

 「戦争は突然起きるわけではないと、私はいつも言っています。必ず小さな芽があります。その芽を摘んでしまえばいいわけです。そうすれば戦争は起こらないわけですから。その芽を摘めるかどうかがすごく重要だと思います」(『ザ・ミッション』)

 ジャーナリズムの最大の役割は権力の監視だといわれる。ただ、重要な言葉が抜けている。「市民のための」という言葉である。不正や腐敗の監視はもちろんだが、日本においては、権力監視とは、戦争を起こすことに二度とメディアが加担しないこと、市民を戦争に巻き込まないために政府をしっかり監視することを意味するだろう。

日本の状況はすでに「小さな芽」の段階を超えているかもしれない。それであっても決してあきらめず、一人でも多くのジャーナリストが、美香さんの言う「小さな芽」に気づき、それを摘むための情報発信に果敢に取り組んでいくことが重要になっている。