永山 則夫

(ながやま のりお、1949年6月27日 - 1997年8月1日)
永山則夫 連続ピストル射殺犯・永山則夫を逮捕事件当時年齢:19歳

犯行日時:1968年10月11日〜11月5日

罪状:窃盗、強盗殺人、殺人、強盗殺人未遂、銃砲刀剣類所持等取締法違反、火薬類取締法違反

事件名:警察庁広域重要指定108号事件(少年連続射殺事件)

事件概要:永山則夫被告は1968年10月初め頃、横須賀市の在日米軍基地内の住宅からピストルを盗取。1968年10月11日、東京都港区の東京プリンスホテルで、巡回中の警備員(当時27)を射殺。その3日後に京都・八坂神社境内で、警備員(当時69)を射殺した。さらに、同月26日には北海道函館市内で、タクシー運転手(当時31)を射殺して売上金約7000円を奪い、11月5日には名古屋市内で、タクシー運転手(当時22)を撃ち殺し、売上金7000余円を奪った。翌69年4月7日、東京・千駄ケ谷のビルへ盗みに入ったところを警備員に見つかり、発砲して逃走したが、間もなく逮捕。

拘置先:東京拘置所

死刑執行:1997年8月1日 48歳没

歴史を変えた永山則夫

永山 則夫(ながやま のりお、1949年6月27日 - 1997年8月1日)は、1968年から1969年にかけて連続ピストル射殺事件(警察庁広域重要指定108号事件)を引き起こした元死刑囚である。

1969年の逮捕から1997年の死刑執行までの間、獄中で創作活動を続けた小説家でもあった。1983年、小説『木橋』で第19回新日本文学賞を受賞しています。

永山則夫の生い立ち

1949年6月27日、北海道網走市呼人番外地に、8人兄弟の7番目の子(四男)として生まれる。博打に明け暮れる父親の放蕩生活によって、家庭は崩壊状態であり、現在で言うところのネグレクトの犠牲者であった。1954年(当時5歳)に、母親が則夫を含む4人兄弟を網走の家に残し、青森県板柳町の実家に逃げ帰ってしまう。残された則夫を含む4人兄弟は屑拾いなど極貧生活に耐えてギリギリの生計を立てたものの、1955年に、4人を見かねた近隣住民による福祉事務所への通報をきっかけに、板柳の母親の元に引き取られた。

1965年3月、板柳から東京に集団就職する。上京後は職を転々とし、どこも長続きしなかった。

■連続射殺事件:米軍宿舎から盗んだピストルで、1968年10月から1969年4月にかけて、東京、京都、函館、名古屋で4人を射殺し、いわゆる「連続ピストル射殺事件」(広域重要指定108号事件)を引き起こす。永山は1965年に起こった少年ライフル魔事件の現場至近で働いていたためにこの事件を目撃しており、これに刺激された犯行ではないかという見方もある。

1969年4月(当時19歳10ヶ月)に東京で逮捕された。1979年に東京地方裁判所で死刑判決。1981年に東京高等裁判所で無期懲役に一旦は減刑されるが、1990年に最高裁判所で「家庭環境の劣悪さは確かに同情に値するが、彼の兄弟たちは凶悪犯罪を犯していない」として死刑判決が確定する。この判決では死刑を宣告する基準(永山基準)が示された。

獄中作家永山則夫

獄中で、読み書きも困難な状態から独学で執筆活動を開始し、1971年に手記『無知の涙』、『人民をわすれたカナリアたち』を発表した。この印税は4人の被害者遺族へ支払われ、そのことが1981年の高等裁判所判決において情状の一つとして考慮され、無期懲役への減刑につながった(のち差し戻し審で死刑判決、最高裁による上告棄却により90年に死刑確定)。

1983年には小説『木橋』で第19回新日本文学賞を受賞した。1990年には、秋山駿と加賀乙彦の推薦を受けて日本文藝家協会への入会を申し込むが、協会の理事会にて入会委員長の青山光二、佐伯彰一など理事の一部が、永山が殺人事件の刑事被告人であるため入会させてはならないと反対した結果、入会が認められず、それに抗議した中上健次、筒井康隆、柄谷行人、井口時男が、日本文藝家協会から脱会するという出来事も起こった。なお理事長の三浦朱門とその妻曽野綾子は入会賛成で、江藤淳は反対の立場からテレビで中上健次と討論を行った。その一方で、1996年、ドイツ・ザール州作家同盟への正式入会を果たしている。

獄中から手記や短歌を自ら発表する死刑囚は多い。しかし、自らの罪を認める一方で、自己の行動を客観的にふりかえるという手法で創作活動を行い、文壇において一定の地位を獲得するまでに至った永山は、死刑囚としては珍しい存在といえる。

永山則夫の死刑執行

1997年8月1日、東京拘置所において永山の死刑が執行された。享年48。全国新聞はいずれも当日の夕刊の第一面で報道。

生前、永山は知人に「刑が執行される時には全力で抵抗する」と述べていた。実際に処刑の際、永山が激しく抵抗したとする複数の証言がある 。このため、永山の死体は拘置所内で即座に火葬されたと言われている。

永山の死刑執行については、執行同年6月28日に逮捕された神戸連続児童殺傷事件の犯人が少年(当時14歳11ヶ月)であったことが、少なからず影響したとの見方も根強い。少年法による少年犯罪の加害者保護に対する世論の反発が高まる中、未成年で犯罪を起こし死刑囚となった永山を処刑する事で、その反発を和らげようとしたのではないか、とマスコミは取り上げた。

永山の告別式は東京都文京区の林泉寺で行われ、喪主は東京高等裁判所における差戻審、差戻後上告審で弁護人を担当した遠藤誠弁護士が務めた。永山の遺言により、遺灰は故郷の海であるオホーツク海に、遠藤の手によって散布された。

死後、弁護人たちにより「永山子ども基金」が創設された。これは著作の印税を国内と世界の貧しい子どもたちに寄付してほしいとの、永山の遺言によるもので、貧しさから犯罪を起こすことのないようにとの願いが込められている。

永山則夫連続射殺事件

■永山則夫連続射殺事件(ながやまのりおれんぞくしゃさつじけん)とは、1968年10月から11月にかけて、東京都区部・京都市・函館市・名古屋市において発生した、ピストルによる連続射殺事件である。警察庁による名称は「警察庁広域重要指定108号事件」である。

察は、一連の事件を警察庁広域重要指定108号事件と命名している。犯行現場と被害者は以下の通りである。

・東京 1968年10月11日 東京プリンスホテル(27歳ガードマン)
・京都 1968年10月14日 八坂神社境内(69歳警備員)
・函館 1968年10月26日 亀田郡(31歳タクシー運転手)
・名古屋 1968年11月5日 港区(22歳タクシー運転手)
いずれも横須賀のアメリカ海軍基地から盗んだピストルにより、短期間のうちに犯行に及んだものであった。

1969年4月7日に一連の犯行に使用したピストルを持って予備校に金銭目的で侵入した所を、センサー反応で駆けつけた日本警備保障(現セコム)のガードマンに発見されるが、発砲してガードマンが怯んだ隙に逃走。しかし、警視庁が緊急配備を発令。数時間後、警戒中の代々木署のパトカーに発見され逮捕された。この様子は、番組内では直接犯人の名には触れなかったが、NHKのプロジェクトXの中で、この再現シーンが放送されたことがある。

裁判内容:永山則夫は、犯行当時19歳の少年だったが、犯行累積の抑止と逮捕のために指名手配されたこともあり、当初から実名報道がなされた。この外にも、1965年に発生した少年ライフル魔事件でも同様であった。

10年を費やした1審の審議では、1979年に東京地方裁判所で死刑判決を受けたが、2審の東京高等裁判所では家庭環境・生育状況が劣悪であった事を情状酌量による減刑の理由として、1981年に無期懲役に一旦は減刑された。

しかし、最高裁は1983年に東京高裁の判決を破棄して、東京高裁に審理を差し戻し、1987年の東京高裁(第二次)と1990年の最高裁(第二次)は「永山則夫が極貧の家庭で出生・成育し、両親から育児を放棄され、両親の愛情を受けられず、自尊感情を形成できず、人生の希望を持てず、学校教育を受けず、識字能力を獲得できていなかったなどの、家庭環境の劣悪性は確かに同情・考慮に値するが、永山則夫の兄弟姉妹たち7人は犯罪者にならず真面目に生活していることから、生育環境の劣悪性は永山則夫が4人連続殺人を犯した決定的な原因とは認定できない」と判断して、死刑判決が確定した。

永山則夫心境の変化

永山則夫は生育時に両親から育児を放棄され(ネグレクト)、両親の愛情を受けられなかった。裁判が始まった当初は、逮捕時は自尊感情や人生に対する希望や他者を思いやる気持ちも持てず、犯行の動機を国家権力に対する挑戦と発言するなど、精神的に荒廃していた。

永山則夫はその後、獄中結婚した妻やその他の多くの人の働きかけと、裁判での審理の経験を通じて、自己が犯した罪と与えた被害の修復不可能性に関して、自己に対しても他者に対しても社会に対しても客観的に認識・考察する考え方が次第に深まった。その結果、反省・謝罪・贖罪の考えが深まり、最終的には真摯な反省・謝罪・贖罪の境地に至った。永山則夫 連続ピストル射殺犯/永山則夫永山の支持者らは以上のように主張する。

永山基準:日本の死刑基準として

この事件以降殺人事件において死刑判決を宣告する際は、永山判決の死刑適用基準の判例を参考にしている場合が多く、永山基準と呼ばれる。1983年に第1次上告審判決では基準として以下の9項目を提示、そのそれぞれを総合的に考察したとき、刑事責任が極めて重大で、罪と罰の均衡や犯罪予防の観点からもやむを得ない場合に許されるとした。

・犯罪の性質
・犯行の動機
・犯行態様、特に殺害方法の執拗性、残虐性
・結果の重大性、特に殺害された被害者の数
・遺族の被害感情
・社会的影響
・犯人の年齢
・前科
・犯行後の情状
・殺害された被害者の数
この判例以降、4名以上殺害した殺人犯に対しては、裁判所が被告人の犯行時の心神耗弱・自首を認定して無期懲役に減刑して判決をした事例(1980年の新宿西口バス放火事件(6人殺害)、1981年の深川通り魔殺人事件(4人殺害)や地下鉄サリン事件の林郁夫の例)を除けば、裁判所は原則としては死刑判決を適用している。また、1名だけを殺害した殺人犯に対しては強盗や身代金目的誘拐など金銭目的ではなく、殺人の前科がない場合は、死刑判決を回避する傾向が長らく続いてきたが、近年は厳罰化の世論の影響で、被害者が1人であっても死刑判決が下されるケースが増えつつある